ボクは広島でのテレビ収録の帰りの飛行機の中でクモ膜下出血で倒れた。それから6年も経ってしまった。倒れた直後はもう助からないといわれ広島から妹夫婦も駆けつけたという。それからも「目覚めないかも」「記憶はまったくない、目覚めたとしても皆さんの顔すらわからないかも」そんなことをいわれて家族は絶望を味わった。


ボクといえばとぎれとぎれの記憶のなかに、お見舞いに来てくれた人たちや手紙を思い出してつらいリハビリも頑張ってきた。1年の入院生活を終えて自宅に戻ってきてからが本当の意味の闘病生活だったと思う。なれない介護と何もできないボクを抱えて家族はそれでも普通に生活しようと努力してくれた。


経済的にも大変だっただろう。そんな時に昔の仲間が仕事を持って来てくれた。「いままでにくらべたら10分の1にも満たないかもしれないけれど」そう彼らは申し訳なさそうにいうけれど、ボクにとっては「仕事」ができるその行為がありがたかった。感謝した。


そんな文章を集めて闘病記も発行された。そのとき悲願だった帰広を果たした。本通のフタバ書店でサイン会を催した。古巣の中国放送では社長さんまで待っていてくれた。もちろん一緒に番組を作っていたたくさんの人が会いに来てくれた。夜遅くまで流川で飲んだ。学生時代の大切な友人ともあった。もう二度と会えない帰れない場所だと思っていたのでその感激は言い表せないほどだった。


それから3年。両親がいなくなった広島はめっきり遠くの地になっていた。夏にフェイスブックで1通のメッセージが届く。「袋町小学校の還暦記念同窓会があるから招待状を送りたい」そのころはまさか自分でも行けると思っていなかったが考えているうちに「いってみようか?」から「いきたい」に心が変わっていった。


妻はボクが「どうしようか?」といっただけで新幹線やホテルの手配をはじめた。「そう思っていた」といった。幹事の同級生にも電話して付き添いで参加してもいいかも問い合わせてくれた。そうボクはひとりではどこにもいけないから。


同窓会ではあっという間に小学生のボクに戻る。60歳のおっさんとおばさんが「裕司」とか呼び合って何十年ぶりの友人も昨日あったばかりのように話の花が咲く。しゃべれないボクの横に来てくれては話しかけてくれる。ボクだけではない。完全アウェイの妻にも気さくに話してくれる。


本当に来てよかった。次の日は中高の同級生と食事をして妹も会いに来てくれた。今回は3人だけに帰広を伝えた。たくさん「あいたいなあ」と思う人の顔が思い浮かんだがちょうどカープの優勝記念パレードだったりサンフレッチェの残留がかかった試合があったりで忙しいのはわかっている。それでもその3人から伝わったけっこうな大切な人と会えた。


広島に帰ったら何がしたい?そう聞かれて、行きたいのは宮島だったり、むすびのむさしだったり、みっちゃんだったり先輩のBARだったりそんなものだ。そんなものだけど、そこに行くたびに心が熱くなる。今度はいつ帰ってこれるんだろう。そう思う。


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