ボクは元来ものぐさなものだから、一日中ごろごろベッドに中にいて本を読んだりテレビを見たり、ぼーっとしている(いろいろなことを構想している)のが好きだ。病気になってからはさらに出かけるのが億劫になった。「車椅子ででかけるとなったら、込み合っているところには行けないな」とか「階段しかないな」とかいろいろ考えて面倒になるのだ。
しかし、家族はボクを外に連れ出そうとする。「パパランチにいこうよ」「お花見行こうってさそってくれている」「映画見に行く?」「買い物行く?」そういわれて半分は首をかしげる。
「う~~~ん」行きたいっていう感じでもないんだよね。ついそう思ってしまう。
先日朝起きたら妻が「さ、出かけるから着替えて」という。今日の妻の声には絶対的なものがあって「行きたくない」なんていえない感じだ。
どうやら義父母も娘も一緒に行くようだ。着替えを手伝ってもらいながら「どこいくの?」そう思っていると娘が「パパ富士山行くんだって」そういうではないか。「富士山?!!」今日は平日で頼みの綱の息子もいない。しかも80歳をゆうに超えている両親も一緒だ。無謀なんじゃないかな?そう思った。妻には本当に驚かされる。何も考えていないようでしっかり考えているような?どうなんだろうか?結婚30年になるが、いまだにわからない。
「パパ?寝てばっかりいたらだめだから」それが口癖である。
相手に迷惑がかからない絶妙な感じで出かける予定を立ててくれる。ボクを誘ってくれる友人がいればなるべくそれを実行できるように融通も利かせてくれる。
出かけてみるといままで「面倒だなあ」と思っていた感情はどこかに消えて「来てよかった」に変わっている。
連れて行ってもらうのも、行き先でも、相手にも、迷惑がかかるんじゃないか?
そう思っている自分がストップをかけているのかもしれないな、そう思う。
だから妻の強引さには「まったく」と思いながらも感謝するのだ。
家を出て東名高速の途中のサービスエリアで休憩をとり富士山の5合目までは3時間ちょっと。道もすいていて快適なドライブだった。義父が三脚を立てて写真を撮ってくれる。義母も嬉しそうだ。妻と娘は急勾配の坂道に悪戦苦闘しながらも車椅子を押してくれる。その日、自宅付近は30度を越える暑さだったが五合目は16度。富士山なんていつぶりなんだろう?五合目の広場はほとんどが外国人で中国人をはじめ欧米人様々の国の言葉が飛び交う。日本人は2割ほどなんじゃないかと思う。頂上から帰ってきた登山者がリュックを床に置いて休んでいる。
テレビでよく見る馬もいる。ザワザワしているがすがすがしい。思わず深呼吸だ。
横には富士山の頂がみえる。五合目からみると富士山らしくないし、すぐに頂上に登れるような錯覚に陥る近さだ。眼下には山々が雲の下にある。気持ちが高揚する。車椅子でここに立っていられることが嬉しい。
つくづく来てよかったと思う。ちょっと強引な妻と寝起きで車に乗った娘に心の中で「ありがとう」という。そんな家族でなかったらいまボクは間違いなく寝たきりになっていたに違いない。