ボクには、どうしても追い越せない先輩がいる。
同じ業界に長く身を置いてきたが、「先輩」と聞いて、顔や声や間の取り方まで一緒に浮かんでくる人はそう多くない。
その人は、ボクが大学時代、まだ右も左も分からなかった頃から、記者として使ってくれた出版社の編集者だ。妻とも、その先輩の編集部で知り合った。
今思えば、仕事だけでなく、人生の導線まで敷いてもらっていたような気がする。先輩たちと一緒に「これは面白がれるよね」と言いながら作った本が、思いがけずボクの初めてのベストセラーになった。続編も次々に出て、20代のボクは、マンションが一つ買えるほどの印税を手にした。
本が一冊売れると、仕事が増える。原稿を書き、取材に行き、また書く。忙しさはありがたく、同時に怖さもあった。
それから何十年も、お互いに忙しい時間が流れた。頻繁に会うわけではない。けれど、飲みに行く。ご飯を食べる。たまに会って話を聞いていると、また始まったな、と思うような親父ギャグが飛び出す。でも、その空気がいい。落ち着く。なぜか、腑に落ちる。
そんな先輩から、ある本が送られてきた。分厚い一冊だった。封筒を開けて、思わず声が出た。先輩が書き下ろした、小説仕立ての自叙伝だったのだ。
出版社の編集者として走り続け、その後は通販会社で重い役職を担い、完全にリタイアして三年。ようやく肩の荷を下ろしたはずの時間に、これだけの文字数の本を書き下ろす。
その事実だけで、もう敵わないと思った。
ページをめくり始めると、知っているはずの時代、聞いたことのあるエピソードが、少し違う角度で立ち上がってくる。登場人物たちの顔を、なんとなく想像してしまう。ああ、あの人だろうか。いや、こっちかもしれない。そんなことを考えながら、時間がゆっくり過ぎていく。
追い越せない先輩がいるというのは、実は幸せなことなのかもしれない。
まだ学ぶことがある。まだ驚かされる。まだ背中を見ていられる。今年の暮れは、この分厚い一冊と一緒に過ごそうと思っている。ページを閉じるたび、また少し、先輩との差を思い知らされながら。
「南風日記 備忘録2019-2022」
著者:村田耕一
出版社:アルソス (2025/12/13)
発売日:2025/12/13
定年となり現役を完全リタイヤした田村。今のことを忘れてしまうだろうと身辺雑記を始めたが、その直後から、次から次へ知り合いを見送ることになり、どうなるのかと思っているうちにコロナが流行り始める。コロナ禍で、だんだんと終活のことも気になりだしているうちに、周囲では思いもよらぬことが起こり始める。人生の第4コーナーをまわった主人公が、過去に思いを寄せ、人生の終わりを思い描く現実のようなフィクションのような不思議な物語。
RCCコラム