最近の芸能ニュースってのは、昔のワイドショーみたいな泥臭さがなくなった代わりに、どこか無機質で、でも妙にリアルな生々しさが残る。田中圭と永野芽郁の話題もそんな感じだ。どこまで真実かわからないが、報じられている内容だけ見れば「ああ、これって“依存” なんじゃないの?」と、つい言いたくなる。
恋は盲目というけれど、盲目のまま突っ走って、崖から落ちるのが恋愛依存症。自分じゃコントロールできないのに「これが運命だ」と勘違いする。毎晩コンビニでスイーツを買って「今日はがんばった自分へのご褒美ね」なんて言ってるうちに、取り返しのつかない体重で絶望する人に似ている。気づいた時には、自分じゃ抜け出せない場所にいる。
そもそも依存症ってのは、酒やタバコ、ギャンブルだけの話じゃない。最近の“現代病” はもっと厄介だ。スマホ、SNS、承認欲求、仕事や日常生活はまともにみえる。でも、心の中では“満たされない自分” がずっと叫んでる。その叫びを、一時的にでも静かにしてくれるものに、私たちはしがみつく。そしてそれなくてはならないようにみえるとき、人はそれを“依存” と呼ぶ。
今や誰もが持ってる“闇”。たとえばSNS依存。友達の数、フォロワーの数、「いいね」の数に人生の価値を預けてるようなもんだ。昨日あげた自撮りに「いいね」が少なかっただけで、寝つきが悪くなるっていうんだから、本末転倒もいいとこ。あげくの果てにアプリを何十回も開いて確認する自分。もはや「習慣」ではなく「執着」だ。
仕事だってそう。昔なら「働き者」で済んだけど、今は「ワーカホリック」という立派な依存症の一種。家庭を顧みず、夜中までPCとにらめっこ。休日にも「今だけこれだけは…」と自分に言い訳。自分を犠牲にしてまで評価を得ようとする姿は、信仰に近い。でも、神様なんてどこにもいない。
現代に潜む依存は、どれも落とし穴みたいなものだ。便利、快適、効率的これらの言葉の裏には、「人間が壊れていくプロセス」もちゃんと隠れている。何かに委ねる自分は楽だ。苦しいつもりでも楽なのだ。
田中さんと永野さんの話も、真相は分からない。だがもしそこに“やめたいのにやめられない感情” があるのなら、それはもう依存の入り口。恋愛をやめられない。本当に好きなのか?恋愛の名を借りた「中毒症状」と言える。人間関係もまた、薬と同じく「適量」を誤ると毒になる。