広島の原爆の日、長崎の原爆の日、終戦の日と8月は、戦争の話がテレビでも頻繁に流される。
ボクもこの頃になると、原爆の話など原稿に書くこともある。
広島で育ったボクは、被爆者2世。広島で育ったものは珍しくもないことだ。
以前話したこともあったが、親戚のおじさんが、自分が被爆者だということは隠していると聞いて「なんで?」と大学の頃聞いたことがあった。「自分の子どもがそれによって差別されるかもしれないからだよ。まだまだそんな偏見があるんだよ」そんなことを本当に秘密を明かすようにそっと話してくれた思い出がある。
偏見って?…明確にはわからないが被曝によってある病気になる確率が高いとかそんなまだ明確にわからない「噂」によるものらしい。
戦争が終わって50年も経つ頃の話だ。もうそれから25年以上も経つ。終戦78年。戦争という悲惨な過去は、なかなか本当の意味の過去にはならないのだなあとそのことだけでも実感する。
我が家には87歳になる義両親がいる。終戦は6年生の時。義母は、東京から自分の母の実家のあった新潟に小学校4年で疎開した。学校に行っても勉強もあまりしないで、山に薪を拾いに行ったり、道端の草を摘みにいっていたという。「草を積んでどうするの?」薪も詰んだ草も干して兵隊さんの食糧に送ったと聞いている。「確か桑だったかなあ」と話す。そんな話を最近ぽつぽつと話す。87歳の義母は、私たちが一番若い戦争体験者ぐらい。2、3歳上の人は実際戦地にいかなければならない人たちだったという。15歳で。
実際ボクの両親は義両親より7歳と10歳ほど上なので母は、女学校の授業で軍服作っているときに広島で被爆した。父は、満州からロシアの捕虜となった。帰ってくるまでの悲惨な捕虜生活は話したくもないとずっといっていた。「芋とかぼちゃしか食べるものもなくて、それも僅かだった。貪るように食べた。だから今でもカボチャと芋はよう食べん」母が出す料理を食べない理由としてその言葉は聞いていたが後は何の話さなかった。話したくなかったのだ。
昭和も終わった頃、日本政府から菊の御紋の入った金盃が送られてきたが父は戸棚の奥深くにしまって亡くなるまでそれを見たことはなかった。それもボクの子どもが産まれた頃の話だ。戦争は、まだまだ終わっていない。そんな心もどこかにしまわなければいけない戦争は起こしてはいけない。
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