8月6日広島の原爆の日、8月9日長崎の原爆の日。
ボクの母も広島の爆心地から数キロ離れた軍需工場で被爆した。
女学生だった母は、工場で縫製の仕事をしていたそうだ。工場の窓は見たこともない光の色でピカッとひかり、それから地響きとともにドッカンとものすごい音がしたそうだ。工場ごとグラグラと揺れて叫び声や、揺れて倒れたものか、爆風で倒れたのか、部屋の中はあっという間に窓も割れてぐちゃぐちゃになったそうだ。割れた窓ガラスは鋭利に割れて突き刺さっていた。もちろん怪我をした人もたくさんいた。
それから先生方はただごとではない様子で動き出した。その晩は真っ暗な中、同級生と寄り添って手当てをしながら眠れない一晩を過ごしたそうだ。翌日、ボクの母の父(ボクの祖父)が迎えにきてくれて皆実町にあった実家に帰ったそうだ。己斐の上の方の学徒動員の工場からはいくつもの川を渡り、爆心地を掠め京橋川を最後に渡って実家に着く。今は平和な広島の街並みを頭に描きながらボクもその道を何度も歩いてみた。
母は、子どもであるボクや妹にはあまり原爆のことや、戦争のことを話したがらなかった。
叔父たちが酒を飲むと「そよの~わしゃ、ピカあとうてるけ~ね~(ちょっとのことではへこたれない)」なんて言い出すともの悲しげな顔をする母を見逃さなかった。だから普段もあまり戦争の話はしなかった。
しかしボクの息子が小学生になった頃、夏休みに平和記念公園の資料館に出かけて行ったり「なんで?」「どうして?」の質問攻めには重い口を開いて戦争のことを話し始めたのだ。
お父さんが迎えに来てくれて工場から家に帰れることになったけれど、一緒にいた友人たちはまだ迎えに来ない人もたくさんいて、今でも人のことを考える余裕のなかった自分を責めることもあると言っていた。
もう2度と会えないかもしれないとみんなが思ったりしていたはずだが、「でたまた明日」そう言って別れたそうだ。そこから家に帰る道はまさしく地獄絵図だったそうだ。髪が顔に張り付いてめり込んでいる人、腕のない人や人間の黒焦げの死体。「水、水」と言って水を乞う人。「水を欲しがってもあげちゃいけんよ、飲んだら死ぬけ」そんな話もあった。唇も爛れてちゃんと水も飲めない人が「水をください」と言って寄ってくる。声にならない声で。水が飲みたくて川に入っていく。
一口水を飲むと倒れて動かなくなるんだそうだ。
お父さんともう手なんて繋ぐ歳ではなかったが手を引いて帰ってもらわなければたどり着けなかったかもしれん、と気丈な母が言ったのだ。それまで「日本が負ける」なんて思っていなかったけれど、新型爆弾(原爆)の悲惨さをみて、それは何か幻だと気がついたそうだ。全てが消えてなくなる。生活も歴史も人間の感情も存在すらなくなってしまう。「戦争なんて考えることのできる人間がやってはいけん」そう息子に言った。
原爆の日がくると母を思い出す。被爆二世のボクも母の言葉を伝えなければならない。
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