3/16日夜半に 宮城、福島で震度6強の大きな地震があった。
ボクの住む東京・神奈川あたりも大きな揺れがあった。

震度4だったらしい。一回グラグラを嫌な予感のする揺れがあった後、再び1分間ほどの長い揺れ。1分というのはかなり長い揺れだ。頭をよぎるのはやはり、10年前の東日本大震災だ。

あの日偶然にも家にいたボク。
帰宅できなかった都心で仕事をしている息子にも連絡が取れず、高校生だった娘も学校で夜になった。

学校まで行こうと妻と車で向かった。幹線道路は大渋滞。街は真っ暗で、車のテールランプだけが光っている。真っ暗な中店を開けていた商店で、懐中電灯と電池を買った。それが最後、街からは懐中電灯も電池も食料もガソリンもなくなった。

広島の親戚やRCCの仕事仲間から卓上用ガスボンベや電池や食料を送ってもらった。1週間もしないうちに街から物がなくなった。計画停電というのも味わった。それから東北や北陸にも出向き色々のことを学んだつもりでいた。もちろん災害用リュックなども用意した。

10年前のことが色々が頭をよぎり、ベッドの中にいたボクは近くにいた妻と顔を見合わせた。
「これはいつもと違う揺れだな」そうお互い思ったのだった。

揺れている間、妻はまずベッド下の敷いてある妻用の寝具を畳んだ。避難用の通路確保だ。で、ボクの口から出た言葉はなんと「靴下!」だった。妻もボクも寝るため素足だったのだ。妻は真顔で引き出しから靴下を出してボクに履かせた。小さな小さな揺れがまだ残ってるかな?もうこれで揺れは終わりなんだろうか?
って思いながら時が経つのを待った。

東日本の災害が起きたばっかりの時、そういえばベッドの横には、スリッパか靴を用意して寝ろと言われていた覚えがあった。瓦礫の山の避難に足裏が危ないからだ。靴下も履いていたことに越したことはないが、「靴下」が第一優先だとは思わない。落ち着いてから妻と笑った。お財布取りに行くとかね、上着羽織るとかね。薬持ってくるとかね。靴下より大切なことあるだろうって思ったけれど。ボクの中では靴下だって大切な物だったとは思う。ボクの麻痺した側の足を見て貰えばわかると思うけれど。
慌てている時は思っても見ないことをするもんだと思った。

朝になってテレビで宮城などの被害が報告されていた。
被害に遭われた皆様にお見舞いを申し上げる。やっぱり、天災は忘れた頃にやって来る 備えあれば憂いなし。もう一度気を引き締めて点検したい。



※写真は 災害時の悪路にも車椅子を牽引できる「JINRIKI」


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