「100歳まで生きてどうするんですか?」(中央公論新社 刊)という末井昭さんの書かれた本を読んだ。
ちょうど1週間ぐらい前に「死」と言うものについてあーでもないこーでもないボクも原稿に書いたばかりだった。夜中に目が覚めると昔の健常なボクの状態が寝ぼけた脳の中で一瞬だけ再生される。すぐに今の動かない、喋れない自分だと気がついて元の体に戻ってしまうのだけど、体が違うところから戻ってくる感覚がある。その後真っ暗な天井を見つめていると「いつまで生きてるんだろうなあ」とふと考えてしまう、と言うような内容なのだが、別に絶望しているわけでも不幸なわけでもない。なのに「死」の入り口がちらっと見えてしまう。と言う話を書いた。
そして昨日この本に出会った。
この本でも「この歳になるまで自分が老人であるとか、いつ死ぬんだろうとか、まったく考えたことがなかった」と末井さんがおっしゃる。妻である美子さんのお母様、和子さんが昨年コロナで亡くなった。入所していた有料老人ホームで新型コロナウイルスのクラスターが発生し、感染してしまったのだ。
それまでお母さんと義息子である末井さん美子さんは旅行に出かけたり、誕生日を祝ったり側から拝見していても微笑ましい家族だった。
それがだ、和子さんは、最初は施設内で卓球をしていて大腿骨を骨折。手術をしてシルバーカーを押して歩けるようにもなったけれど外出の機会はあまりなくなったそう。
それから誤嚥で人工呼吸器をつけるようになったり、さらにはコロナに感染して入院したり。思えば、最初に骨折した時から和子さんの「好奇心」がどんどん薄れていき死に向かっていくことが始まっていたのかもしれないと書かれている。
確かにボクも色々なことに興味が向かなくなったり、やっていたことがボキッとへし折れてしまったり…そんな時は病気の状態が芳しくない。病気だからそうなるのか、外への交わりが少なくなり色々なことに興味を持てなくなるから病気になるのか?何かを諦めてしまうんだろうな。自分の中で。
身近なお母さんの死の始まりだったかもしれにないその時から、死に向かっていく様が描かれていた。小さなきっかけが死の扉の鍵を開けてしまうこともある。うまいぐあいに直前で道を曲がり扉を開けない人もいる。
「死」が日常と背中合わせに共存している。
お墓のこと、安楽死についてなど。今まであまり考えてこなかった「老い」や「人生」そして「死」について考える。気が付かなかったが すぐそこにある。一気に読んでしまった。
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