小田嶋隆さん×武田砂鉄さんの「災間の唄」という本を読んだ。東日本大震災からコロナ禍までの10年間の災間ニッポンをツイートで読み解いた本だ。

小田嶋さんのツイートはもちろん以前からフォローさせていただいている。ある日小田嶋さんのツイートで「あれ?小田嶋さんぶちぎれてるぞ、何に?」そう思って元のツイートを遡ってみたり、遡らなかったり。そして「クックッ」と吹き出すことも少なくない。

Twitterで呟く言葉は140字ほどの短い文章なのだがボクにとっては社会につながる窓である。ちょうどボクは10年ほど前に病に倒れた。この本の始まる時代のちょっと後のことだ。東日本大震災の取材に走り回っていた9月ボクは倒れた。それから1年ぐらいの記憶はほとんどない。それからの記憶は自分の文章で書き残したことが本当なのか思い込みなのか判らぬまま記憶となっている。その頃からTwitterを毎朝読むようになった。だから毎日読むツイートもボクの10年間の記憶の大切な要素となっている。きっとかなり偏りのある真実となっているに違いない。

そんなにそれまで熱心でなかったこともあってボクがフォローしている方は100人ちょっとだった。その中に小田嶋さんのツイートも含まれていた。新聞を読むのも長くて大きくて疲れる。ベッドの上で読むツイートが今世の中の人が関心を持って呟いているご意見だとポツポツと読む。こんなにある人の心の中や怒りや意見を直に聞けるツールがあるだろうか?
時には嘘っぱちなこともあるのかもしれないがそれはそれで、その人だなあと思ってみている。皮肉を込めて怒りをむき出しにしている感情にも行き当たる。そしてあらら。。。と思ったのは自分がよく知っている人同士が正反対の意見で対立関係にあることを知ることもあって、しかも罵り合っていることもある。あれ?ボクが催した会で遭遇したことなかったっけ?なんて思ってみたり。

そして時には心にぐさっと引っかかる一文がある。本を読んでいて思い出したのだが「原稿を書く人間が原稿を書く理由は文章が上手いからでも、頭が良いからでもなくて、「一言多い」からだよ。逆に言えば、書き手は文章が下手でもアタマが悪くてもなんとかやっていけるのであって、やっていけなくなるのだとしたら、そいつが余計な事を言う気持ちがをなくしたからです」と言うツイートがあった。

ボクが頭の病気になった今も書き手の端くれとして生きていて面白いとか共鳴を持って読んでくれている人がいるんだろうかなんて自暴自棄になっていた頃のツイートだった。時に自分の普通じゃないんじゃないかと怖くなったりもした。「それでも書きたいんだから書いていよう」まだまだ余計かもしれない言葉を紡いでいたいんだから。そう思った。小田嶋さんからしたら皮肉を込めたツイートだったのかもしれないがボクの心は軽くなった。それよりも何よりもツイートの言葉が小気味よい。「SNSが普及して以来、言葉の汚染速度が5倍になってる」し、「ネットを手に入れて以来純粋な「退屈」が駆逐されてしまっている。これは案外ヤバいことなんではないだろうか」「ある芸能人が「そば屋の出前が玄関先で無駄話をしていたのでそばが伸びちゃうと思ってイラッとした。そんな話必要ですか?」とテレビでいったと言う記事を書き起こした記事を読んだ。出前の無駄話も、それをテレビで紹介したタレントも、書き起こした記事も、読んでいるオレも。すべて不必要だと思った」と言うツイートを読んでクスッと笑ったがそれを読んでるボクも同じくだなあなんておかしくなった。そんなクスッと悪い大人の思い出し笑いができる読み物でもある。そんな毎日の連載小説が一冊の本になったと言うのだ。やっぱり10年分読みなおして見たくなるではないか。そして自分の記憶を確かめてみたりしている。



「災間の唄」
著者:小田嶋隆 武田砂鉄
発行所:株式会社サイゾー
発効日:2020年10月31日