「天災は人間にはどうすることもできない災害だ」何十回も聞いた言葉だ。どうすることもできない脅威かもしれないが、こうなっているのは人間のせいかもしれない、そう誰もが思っている。
まだまだ人間の手が入らなかった大昔、川は田畑を流して氾濫した。なすすべも無く。そうだったのだ。いつも自然は人間の上をいく。
そして人間たちは河川工事をしたり土手を作ったりダムを造って氾濫を食い止めようとした。支流を作ったり、川の流れも変えた。けれど、自然はそれをさらにさらに上回る。人間と自然の知恵比べだ。
川だけではない。オゾン層は人間のせいで破壊され異常気象をもたらす。20年に一度の50年に一度の大雨がどんどん更新されて降る。風の流れも変わった。四季も移動し始めている。そのうち春と秋がなくなってしまうかもしれない。
先日大雨が降った日、大雨の合間に小学校からの校内放送が聞こえてきた。
「下校時刻になりました。いまは雨が小降りになっています。しかし風がとても強いです。両手は荷物など持たずあけて下校しましょう。傘も雨は心配ですがいまはささないで帰ってください」そんな内容だった。ごくごく普通の住宅街にある小学校だ。緊急事態のような校内放送が普通に流れてくる。いや緊急事態なんだ。こんなことがいままであっただろうか。
駅から続く坂道は雨が滝のように流れてくる。それでも対策を練り道路を工事して雨が浸透するアスファルトに変更したときいた。それでも急激な雨量には負けてしまうのだろう。それも降りはじめてからあっという間だ。川が近くにない我が家の周りだって短時間のゲリラ豪雨に見舞われるだけで一変してしまう。坂の下の交差点は池になる。
広島の父の言葉を大雨が降ると思い出す。実家から妹の家族の家に向かう道を車で走ると、毎回同じ場所を眺めて言っていた。「人間の作ったもんなんて大したことないけーね。ちょっと雨が降ったり風が吹けばひとたまりもないけー」もう15年以上前の話だ。ど素人の一老人が眺めて毎回心配するような急斜面に順序よく家が建っていた。まだゲリラ豪雨という言葉も無かった時代だ。そこが雨で流れて土砂崩れで滑り落ちるのを心配していた。人間が想像できることはほとんどが実際に起こることだと父は話した。その場所が今どうなっているかわからないが、雨が降るとあの光景を思い出してしまう。