VRの登嶋さんが福島方面に撮影に出かけたと聞いた。半年に1度ほど被災地を撮っているという。
「神足さんは3.11のときどうされていましたか?」そう聞かれて色々なことが蘇ってきた。

当日ボクは珍しく自宅にいて原稿をかいていた。義母と二人きりだった。ものすごい揺れで立っていられない。サイドボードからガラスの置物が小船のように揺れて落ちていった。ガシャガシャン。本だらけの家の中はかろうじて平静を保った。義母の安否を確認するため大声で叫んだ。「だいじょうぶですか???」。

まもなく車で外出中だった妻が帰ってきた。信号でちょうど止まっていたんだけど「遊園地のアトラクションのように車が揺れて跳ねてるみたいになった」そうだ。「周りのビルの外壁もぼろぼろ崩れてきたし、帰ってくる間信号もついてないし、電信柱が倒れているところもあった。これはひどいことがおこったにちがいない・・・」そう報告された。「水道は出るの?」蛇口をひねりやかんや風呂場に水を溜める。電話をしても高校にいっている娘とも職場の息子とも連絡もとれない。どんどん暗くなっていく停電の家の中でロウソクをともしラジオに耳を傾ける。やっと娘の学校の緊急連絡網で、電車も止まっているので学校に泊まる用意があるとの連絡が入る。「迎えにいける人は帰ってこれるんだって」。情報も交錯していてどれが正しいかもわからない。停電はしばらく続き、計画停電にも我が家は対象地域で長いあいだ色々な工夫をした。

そしてすぐに取材にも行った。まさしく生き地獄とはこのことだ・・・そんな光景だった。何もできないかもしれないけれど、微力だけど、そう思いながら車で物資を被災地まで運んだり、知り合いの飲み屋の女将たちが「おっぱい基金」なんていうのを始めたのでそれを手伝って粉ミルクを届けたり。

1ヶ月経ってまた行くと今度は悪臭が立ち込めていた。人々は呆然とし、でも足も手も止めることはしない。口数は少なくてもなにかをしなければいられない、そんなこの世のものとは思えない光景が目に焼きついている。

例えば被災地に物資が届く。しかし役所や行政の動きが鈍くてなかなか手元まで行き届かない。現地の当事者が怒られるのを覚悟で独自のルールを作ったり、そうするとうまくいっているようにも見えた。それがどうしてだめなのか、この緊急事態にどうすればいいのか、常に情報とルールはこんがらがっているように見えた。

そして残念なことに2011年9月にボクはくも膜下出血を発症して志半ばで活動を途中でリタイアしてしまった。今回「3.11のときどうしていました?」ときかれてそのとき使用していた携帯を充電してみた。その無残な光景がそのままタイムカプセルのように写っていた。




今はどうなっているんだろうか?この残骸はなくなっているのだろうな。志なかばで行けなくなってしまったこの場所をもう一度反省をこめて見てみたい。


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