8月6日 広島平和記念式典がおこなわれた。8月9日には長崎でも同様に行なわれた。
広島市に産まれたボクとしては何か意識しなくても町の中には被爆建物や、「あそこのお母さんは『ピカ』の日に偶然親戚の家に行っていたから助かったそうで」なんていう話が幼いころから自然にされていた。原爆の日が近づけば広島の人口が2倍に膨れ上がるんじゃないかと思うほどごったがえしていた。外国人も鎮魂に訪れた。二度とこんなつらい出来事を繰り返さないようにと願った。
だから東京の大学に行ったボクが驚いたことは広島での原爆の日と東京での原爆の日の扱いや報道の仕方が全く違うことだった。日本の出来事ではなかったのか?広島の出来事だったのか?そう思うほどだった。
それでも広島のうちの母さんはボクたち子どもの前ではあまり原爆の話はしたくなさそうだった。
母は当日女学校の授業で工場にいって縫製の仕事をしていたそうだ。そこで被爆。母のお父さんであるボクのおじいさんが迎えにきてくれて家まで帰る道は思い出すだけでも恐ろしくなる地獄絵図だったという。そんな話はちらほら聞いていたがあまり聞いたことはなかった。
それが母は、ボクの息子が東京から毎年夏休みに帰省するとポツポツと原爆の話をするようになった。それはボクにとって意外なことだった。驚いた。東京からやってくる孫に自分の体験を話すようになった。その夏からは母と息子は足しげく原爆資料館なんかにもよく通っていた。「はだしのゲン」の映画もそこで見た。ボクも学生時代ぶりに付き合ったりもした。息子が何を感じ母がどういう気持ちで伝え始めたのか聞いておけばよかったと今さらながら思う。
女学生だった母の原爆の記憶はどう息子にうつったのか。
我が家の原爆の記憶でもうひとつ鮮明に驚いたことがある。
それは広島の、昔近くに住んでいた叔父さんの家に遊びにいったときのことだった。
その家のお嬢さんが結婚して子どもを生まないと話していると聞いたときのことだ。「裕ちゃん、内緒の話なんじゃけど、〇〇はよう言わんが子どもを生まんのは裕ちゃんと同じ被爆2世だからだと思うんじゃ。いろいろあれだけ~被爆してると」といったことだ。ボクたちは被爆した母親(父親)から産まれている被爆2世。実際に被爆しているわけではもちろんない。
「だって叔父さんは被爆してるけど結婚してこうやって子どもが普通に生まれてその娘の話でしょ?」影響がないとも言い切れないがあるとも言えない。
その娘が原爆を気にして子どもを生まないの??そんなこと思ってもみなかった。ボクの頭の片隅にも思わなかった。が、色々取材をしているとそんな話もあることを知った。70年経ってもそんな話がまだ広島の片隅にはあるってこと。
町は見事に復興した。しかし人の心の中にはまだ消えないなにかがある。被爆当事者でなくとも消えないなにかがある。そんなことは二度とあってはいけない。
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