3月の終わりにボクの尊敬する先輩が入院したと連絡が入った。「どうやら随分悪いようだ。もしお見舞いしてくれる方がいるならば急いだほうがよい」と奥様からの伝言を後輩から聞いた。


昨年広島に帰った時その先輩がやっている流川のBARに寄った。その時すでに「かなり悪いみたいだよ」そう聞いていた。


故郷に親もいなくなった今、数人の友人知人に会うこと、それとそのBARに寄って先輩の顔を見ることぐらいしかよりどころはなくなっていた。先輩は修道中学、高校の水球の大先輩でボクが現役のころは鬼のようにこわい先輩だった。が、先輩はボクが大学のとき肩の故障で水球ができなくなってからも、ボクがくも膜下出血になった時も、本当に心配してくれたし怒ってもくれた。


水球ができなくなってみんなと距離を自然と置くようになったボクにも必ず声をかけてくれた。


ボクがクモ膜下になった時はすでに癌が先輩の身体をむしばんでいて大手術をして生還して数年たった時だったが、いつものようにBARに立っていた。そして自分の身体のことも「もうそんなに長くは生きられないんだけど、ここはいつでも開けとく」そう言いながら「お前はまだまだやることがあるんじゃけ、頑張らんといけん」そう叱咤激励してくれた。「広島に帰ってくることを目標に頑張りんさい。待っとる」そう言って絶妙なタイミングでメールも欠かさず送ってくれた。


先輩は「クモ膜下で倒れるその前の晩ここで飲んでいたのに、お前の身体が悲鳴をあげて辛そうなのはわかっていたのになんも言ってあげられなかった。それが一番の後悔だ」そういつも言っていた。
けれどボクの不摂生なんてその日始まったことじゃない。だいたい先輩のBARは広島での仕事終わりにいつも酔っ払ってふらふらになって家に帰るようにそこに行って先輩の顔を見て眠っていたのだ。先輩にはそんな姿を何時も見せていた。
いい大人がそこに行くことで安心できる場所だったのだ。


先輩の病状の悪化を聞いていてもたってもいられなかった。


その日にでも駆けつけたかったがそれも許されなかった。病気というものがボクの自由をかなり奪っているがこんな時は病気になっている自分を悔いる。大切な人の大切な時に駆けつけられない自分を悔いるのだ。


それから間もなくして先輩は旅立たれた。


大きな先輩の存在は今もなくなることはない。先輩は最後に会った時


「なあ、神足。病気っていうもんは恐しいもんだなあ。いろいろなもんが見えてくるよなあ。
いいものも、悪いものも。これでもかって試練が待ってる。
けれど、自分しかそれを乗り越えられるもんはない。自分が頑張るしかない。
頑張ってる人に向かって頑張れって言っちゃいかんっていうけれど、言うよ。
ガンバりなさい。あんたならできる。それを知ってる」


そう言ってくれた。ボクはできる限り頑張っていこうと思う。


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