ボクの家の近くに、「べこ亭」という焼き肉屋がある。
ちょっと気取った店である。
誕生日やちょっとした取引先との会食に適している。


「車椅子なんですけど」と妻が予約の時に言う。すると、車いすが入りやすい席を用意していてくれる。
最近では、車椅子客も多いのだろうか。
予約の時、車椅子と告げると、入り口の段差にスロープを出して待っていてくれる。


初めからバリアフリーをうたっている店ではないが、十分にバリアフリーである。そんなさりげない心づかいがぼくを元気にする。
それは、健常な人と普通に過ごすことが出来たからだ。お互いにさりげない気遣いは必要なのだけど、普通に過ごせることほどありがたいことはない。
特別なことをしてもらいたいわけではない。普通にしたいのだ。


JRの階段を上るためのエレベーターやリフトだけではない、点字ブロックや構内の柱にある点字、斜めにむいている切符販売機のコイン投入口、車内やホームでのアナウンス、普段は点字ブロックなどはわかってもほとんど気が付かないかもしれないがバリアを持った人にとって無くてはならないものなのである。


目が見えない人には声や点字が、耳が不自由ならば文字での案内板が、それぞれ普通に存在しているものが無くてはならないものでそれはとても意味のあることなのだ。
すたすたと歩いていた頃のボクにとって、数段の階段を行くことがスロープを行くよりも楽であったのと同じように、車椅子のボクにとっては階段よりもスロープの方が安心なのだ。
最近聞いた、障害と言うのはその人が持っているものではなくて、人と社会の間にあるものだという言葉はそういうことをいっているのかもしれない。


今まで気づかなかったが物にも大体意味があるって事にいまさらながら気が付く。
車椅子で「どうしてここに段差があるんだろ?ひっかかってなかなかあがれない。危ない」そう思っていた歩道から横断歩道に向かうとある10センチほどの段差。


なだらかに段差をなくしてくれればいいのにって思っていたが目が不自由方にとってはその10センチが命を守る目印になっていると聞いてなるほどと思った。点字ブロックなどが無い道では特にだ。


誰かにとって便利だけれど、誰かにとってはちょっとした障害になる。でもそれは誰かにとってなくてはならないものなのだ。
車椅子でガクッとなってももう何もいわない。そう思った。 


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