「最強のふたり」という映画を見た。
2011年のフランス映画で、頸椎損傷で体が不自由な富豪とその介護人になった貧困層の男に芽生える友情、交流を描いた物語であった。そのハリウッドリメイク版映画が12月に公開されたのだ。

スラム街出身で仕事にありつけないだけでなく妻と子供にも見放された男デルと、大富豪だが首から下は事故でまったく動かないフィリップ。たくさんの面接人の中で「子供を迎えにいかなければならないから、来たことのサインだけしてくれ。どうせ受からないだろ?」と部屋に入ってきてしまう無礼なデルに興味を持つフィリップ。
まずそんなフィリップの気持ちが(多分)わかるよなあ・・・と最初から感情移入。「あなたの体を心配しております」「私は介護のベテランでして・・・」「このように大切にいたします」そんなことを並べられても心には響かない。
「ここにサインしてくれ」「どうやってサインするというのだね?動かないんだけど」「まだ口は動いてるじゃないか」そんなような無礼なやりとりが心のどこかに引っかかる気持ち。
もちろん動かない体でどうしろというんだという怒りが湧いてくるかもしれない。が、おざなりな建前の言葉や挨拶では心の扉はそう簡単に開かなくなっている偏屈な自分もいるんだということも、その短い時間のやりとりで感じてしまう。
入院して「大変ですねえ、よくわかりますよ」とか「ボクも同じ病気になりましたが大丈夫ですよ」なんて言われるのはあまり嬉しいものではない。最近そう思う。
同じなんてましてないし同情して欲しいのでもない。今の自分は他の誰でもないんだと・・・病人というものはかなり偏屈だ。
ありのままのその時をそっと関係ないような顔で一緒にいて欲しい。わがままなものである。それと似ている。

今回は誰と行ったかをお知らせしよう。
車椅子トラベラーの三代達也(みよ・たつや)さん。18歳の時事故で車椅子生活となった。
以前彼の本『一度死んだ僕の、車いす世界一周』を紹介したことがあったと思う(2019年10月28日)。その著者だ。以前からボクは存じ上げていたがお会いしてからはそう長くない。今回はこの映画を一緒に見ましょうということになり、日本中を講演会なんかで駆け巡っている三代さんとボクのスケジュールが合った暮れの半日をご一緒できることになった。
30歳を過ぎたばかりで息子とそう違わない。車椅子歴は彼の方が長いわけだ。彼はボクと違って話すことができるのと車椅子を自走することができる。しかし、ボクができて彼にできないこともあるのかもしれない。会ってみてわかることは、彼は賢く努力家だってことだ。一人暮らしをしているという。
こんなおっさんにも付き合ってくれてるんだから気持ちも優しいんだろうし、好奇心だって旺盛なはず。が、ちゃんと用心深い。僕みたいな鉄砲玉とは違う。気持ちの良い青年だ。
それとボクの本を編集してくれた担当の女性と妻。映画を見終わってからうなぎを一緒に食べた。そのあとお茶を飲みに行った。
三代君が映画の中のワンシーンをあれってどう思いますか?そう聞いてきたシーンがあった。

「あなたのお世話は誰よりも自信があったし、自分自身も大丈夫だと思っていた。なんでも受け入れられるって思っていた、でも思っていたより大変で・・・だからお友達でいましょう」と恋人になるかもしれない健常な女性に言われてしまうそんなシーンだ。
わかっているつもりで私はあなたを受け入れる。そう思っていたはずだけど目の前にしてこんなはずじゃなかったと思うのだ。妻はボクが健常な頃からを知っている。途中こういう身体になってそれを受け入れるしかなかった。
今彼女がどう思っているかは実際わからないが、精神的にも物理的にも体力的にも迷惑をかけている。「もう疲れたの」そういっていなくなってしまってもおかしくない。
では、最初の出会いが障害を持ってからだったらどうなんだろう。「それは最初からわかっていたはず。」そんな言葉でも片付けられない。
わかっていたはずのことは、わかっていないかもしれない。元も子もない話しになってきたが、結局は当たり前のことだけど尊敬しあい、愛おしいと思える相手をパートナーとして一緒にいられれば1人より2人、家族になれば3人4人となるかもしれない。それは強くなれるってことだよねって思う。
けっして依存する関係でなく自分がもっと人間らしく生きるためのことだなって思う。
一人でいた方が楽っていうひともいる昨今、二人になって切磋琢磨するのもまた味があると思った次第。



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