病気になってみて、病気でないときには気がつかないことがいろいろわかったりする。
お見舞いに来て「大丈夫?」と心配してくれる知人。

だいたいこんなに長患いでも、ちょうどいいころあいにお見舞いに来てくれたり、メールをくれたり、なんていいタイミングだ、なんて思う人はそのタイミングは偶然でもなんでもなくて、きっとその人の思いやりで見計らったタイミングなんだと気づく。元気な頃、忙しいことを理由に、行かなければ、電話しなければと思って後回しにしていたボクは、なんていい加減なことをしていたのかと反省する。

それと、病室でよく耳にする光景に「癌なんていまや2人に1人がなるんだから大丈夫だよ、不治の病でも何でもない」そう励ます見舞い客。しかもその見舞い客が癌経験者だったりしたら「ボクも胃癌やったけどすぐ歩けたし食べるのだっていまや普通の人と同じだから大丈夫」。

「大丈夫」っていわれても・・・いまから手術する本人はまだそれを消化できていないことが多い。

癌だっていわれてそりゃ、調べたよ。本も読んだし、WEBでも検索した。2人に1人も知っている。手術した次の日から歩くってこともよくあると聞いた。だけど、君のそれとは違うかもしれない。本に書いてあることとは違うかもしれない。それを経験し終わってやっとたどり着く「大丈夫だよ」まで心はいっていないのである。それが、カーテン越しの会話であっても顔が見えなくても患者の曇った顔が見える。「う、うん、そうだね」歯切れのわるい返事が返る。「私の兄が同じ病気だったけど大丈夫だから」そういわれてもなぜか喜べない。

ここで、患者の心を推察すると「○○○っていう病気なんだって、早期発見だったけど悪くなることもあるらしい。」と言ったとしよう。ほしい答えは「早期発見ならきっと大丈夫だね」の返事よりも「それは大変だったね」のひとことだろう。今いかに大変なことが自分に起きているかをわかってほしいのだろう。もちろん「おお、もうそれは大変な病気だからちょっとやばいよね」なんていわれたくはないのだけれど、今まさに降りかかった一大事をわかってもらいたいのだと思う。ボクの場合はへそ曲がりでこれには当てはまらないかもしれないがカーテンのむこうの見舞い客と患者の話はいつもいつも興味深い。きっと一冊本が書けるんじゃないかといつも思って聞いている。

1週間も病室にいれば自然と隣の人がどんな人かわかってくる。怒りっぽいが家族には弱い。会社の社長さんらしく見舞いに来ていた多分社員と看護師さんにあんなに怒鳴っていたのにめっきり奥さんには弱いんだなあ・・・とか、1日何十回もナースコールをして看護師さんを呼び出すきっと気の弱いお父さん。僕みたいに一度もしゃべらないのもあちら側からしたら不気味なんだろうな・・・しゃべれないってわかるのかな?とか、点滴がもうちょっとでなくなってしまうのがものすごくこわい人。「なくなるよ」ってナースコールをしてすぐこなかったら「もうなくなるよ!!!」って叫ぶ。「おいおいほんとうになくなるってば」とまた叫ぶ。だれか大丈夫だからって教えてあげたほうがいい。病室の中は非日常の自分が顔を覗かせる。



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